甲府市の自治基本条例

自治基本条例
条例本文(案)
前文(案)
条例の全体構造
条例説明会
西尾レジュメ
○爾俸爾禄
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爾俸爾禄

平成18(2006)年4月24日、甲府市総合市民会館芸術ホールで開催された「自治基本条例フォーラム みんなでつくろう、こうふの自治基本条例」で主催者を代表して宮島雅展甲府市長が挨拶されました。その時間は10分の予定が30分を超えました。

自治基本条例について注文をつけるのでは無い、自分の想いであるというニュアンスで次のような事を話されたと私のメモに残っています。
・協働の重視
・子供についての条項を含める
・議会についてはその機能を確立することを条項として含めるように市民と議会で十分話し合って作り上げて欲しい
・住民投票をしてよいものと悪いものがあるのではないか・・・昭和38年頃下水道を整備した事、あるいは平和通りの道幅を確保した事、これらに住民は反対だった

このご挨拶の中で宮島市長が管理職教育の場で説かれていると言われた言葉の出典が気になり調べてみました。

その言葉は『爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺』
『爾の俸 爾の禄は 民の膏 民の脂なり 下民は虐げ易きも上天は欺き難し』
「なんじのほう なんじのろく たみのこう たみのしなり かみんはしいたげやすきも じょうてんはあざむきがたし」

これは福島県二本松市の二本松城址(霞ヶ城址)で国史跡として指定された「旧二本松藩戒石銘碑」の碑文であり、その来歴は二本松市ホームページの「戒石銘」に書かれています。
寛延2年(1749)、二本松藩5代藩主丹羽高寛公が藩の儒学者岩井田昨非に命じて、藩士の規範とする四句十六字を、藩士の通用口である藩庁門前の自然石に刻んだもの。原点は後蜀の君主孟昶が965年に作った「戒諭辞」に求められ、また戒石銘碑の起源は、983年北宋時代の君主・太宗が州県の官吏に示したことに始まるといわれています。【二本松城跡│城跡内の文化財(藩庁門付近)】

『戒石銘刻銘に際しては、反昨非派による辞句曲解のため、農民一揆いわゆる昨非騒動が起り、反昨非派は処罰、昨非は病のため隠居という形で解決したといわれています。』
この史実については、ふるさと人物史「岩井田 昨非」に詳細が記載されています。

2012年05月20日・リンク先の確認をしていて以前の「戒石銘」ページが消滅していたので調べ直して修正しました。その作業中で新たに知った記事を紹介しておきます。

「二本松城の戒石銘-秘めた歴史のドラマ」、これは河北新報社の 河北新報オンラインコミュニティー - ワタシ発 まちのカタチ にある記事です。
『大きな花崗岩に刻まれた戒石銘は通用門の脇にある。藩士たちはこれをどう見て登城していたのだろうか。』に続く記事に「昨非騒動」(「積達騒動」)について経緯が書かれています。「疲弊した藩政の改革を急ぎ、藩士たちの教育を進め資質を高めようとした意図は逆に反感を買ってしまった。よくある悲劇的結末だ。」と
そして、『儒学者、岩井田昨非の戒石銘に込められた願いは、250年後に国際交流という形で開花した。』と結ばれています。
二本松市サイト 中国湖北省京山県との友好都市 を参照。

二本松藩(これは 歴史の勉強 という個人サイトにあります)以下引用です--

昨非の改革は軍制、教育、農政、税制など藩政全般にわたる広範囲なもので、藩主高寛、家老忠亮の後ろ盾により、重臣や家臣の反対をものともせずに、半ば強引に行われた。
しかし改革には肝心な経済振興策がなかったために農民の負担は増え、家臣の既得権は侵され、さらに後ろ盾であった家老丹羽忠亮が死去したために反対派の声が次第に大きくなっていった。
藩主高寛も熱意を失い隠居し、家督を高庸に譲った。高庸も最初は昨非とともに改革を進めたが、領民や家臣の批判の高まりを知り、加えて寛延2年(1749年)に東北全域を襲った凶作により一揆が勃発し、ついに昨非を罷免し責任者として勘定奉行諸田兵四郎を閉門追放とした。
これにより藩政改革は失敗したが、実際には改革により新設された税や諸制度はそのままで農民の負担は改革前よりは重くなった。
一揆は説得され鎮圧されたが、農民は返って一揆前より重い負担を背負うことになり、一揆の厳しい処分と合わせ農村の疲弊は進み、これ以降一揆を起こす力すらなくなっていった。

記事末尾には「参考文献:江戸三百藩主人名事典(新人物往来社)、新編物語藩史(新人物往来社)、歴史読本・歴史と旅各誌、関連ホームページ」と記されていますので、これら資料を踏まえた記述と思います。

二本松市「戒石銘」ページのリンク切れ確認から、またひとつ私も学習できました。歴史・理論・政策の3本柱を踏まえて、「戒石銘」はこれからの日本のあり方を考えていく拠りどころにもなることを感じています。