武田氏館跡@甲府市

武田氏館大手口三日月堀

武田氏館大手口で見つかった三日月堀の見学会が2006年4月29日に甲府市教育委員会主催で行われましたで参加してみました。この時は未だ風林火山博覧会が計画されていることなど知りませんでしたので、武田氏館遺跡のことを少し知っておきたい、遺跡の発掘現場とはどんなものなのか見てみたいという興味からだけの参加です。根気の要る大変なお仕事だと感服しました。

大手口三日月堀
大手口三日月堀の発掘調査 現場<--->想定図

「躑躅が崎館」(つつじがさきやかた)とも呼ばれますが、武田氏館は永正16(1519)年に武田信虎によって築かれた方形の館です。この見学会で初めて知ったのですが、武田氏館の正面(大手口)は現在の武田神社(写真の林の中)の東側になります。写真に見える道路よりさらに東に鍛冶小路と呼ばれる道があり、それが戦国時代終り頃のメインストリートでした。武田神社の案内図にある一番右、竜華池脇を通る道です。ちなみに武田神社は信玄を祭神として大正8(1919)年に建造されたもので、南側が正面参道になっています。

武田氏館の全体図
武田氏館の全体図

躑躅ヶ崎館は天正9(1581)年に武田勝頼が韮崎の新府城へ移るまで、武田氏の本拠として整備されました。信虎・信玄・勝頼が居住し、政務を執った主郭部を中心として、武田氏の勢力拡大に伴い複数の施設が増設されました。
天正10(1582)年、武田氏を滅し甲斐を領有した織田・徳川・豊臣氏は、領国統治の中心として武田氏館跡の改修に着手したと考えられ、甲府城移転の直前まで使用された状況の一部がこれまでの調査で明らかにされました。今日知られている曲輪(くるわ)と呼ばれる施設の位置と規模が図に示されていますが、現状の地形や地籍、古絵図、古字名などを基に作成されたもので、館の最終段階の姿と考えられます。(教育委員会記事より)

武田氏滅亡後の全体図
武田氏滅亡後の大手口構造(↑北)

大手口遺構の調査では主郭部への入口となっている土橋の前に石塁が確認されたのですが、さらに発掘調査で「三日月堀」が見つかりました。これが武田時代の遺構であり、この大手口は武田氏滅亡後の統治者により改修され、石塁構築の際の整地で三日月堀も埋められていたということです。本来の形は土塁を伴う丸馬出(まるうまだし)と呼ばれる防御施設を伴う三日月形の堀ですが、土塁の痕跡は確認されていないとのことです。

大手石塁遺構
三日月堀発掘前の大手石塁遺構

三日月堀が埋められて石塁が築かれ、メインストリートの鍛冶小路から外郭部の堀(惣堀)を二本の橋で渡り大手口に入る構造らしいです。

惣堀
惣堀と南側の橋、左が鍛冶小路、右が大手口
橋は木橋だったそうです
土塁
土塁

三日月堀を含む丸馬出は、信濃・駿河・遠江・西上野など武田氏が侵攻した地域の拠点となる城郭で確認される事例が多く、これまで侵攻先で発達した構造と考えられてきました。丸馬出をもつ城郭の築城者として馬場美濃守信房を挙げるものが多く、丸馬出の構築に馬場氏の関与が想定されていますが、『甲陽軍鑑』品第二十五に信玄と馬場信房の前で山本勘助が馬出の重要性を披露したという興味深い記述もあります。山梨県内では武田氏最期の本拠地となった新府城跡の大手のみに存在すると言われてきましたが、今回の発見は、三日月堀の技術の発生や意味を考える上で重要な発見となりました。(教育委員会記事より)

武田氏館
勝頼以前の躑躅ヶ崎館(主郭部が現在の武田神社)

この記事の図版は当日(2006年4月29日)いただいた資料などから使わせていただきました。6ヶ月過ぎた現在の様子は知りませんので、機会があれば記事を追加します。

松代城跡「三日月堀」護岸の遺構確認(信濃毎日新聞 2017年07月27日)
 長野市教委は26日、松代地区の松代城跡で2015年に国史跡に追加指定された範囲を発掘調査した結果、「三日月堀」の護岸の遺構を確認したと発表した。堀の存在は江戸時代の絵図などで知られていたが、実際に確認されたのは初めて。29日に現地説明会を開く。
松代城跡の三日月堀遺構
 三日月堀は、防御力を高めるために城門の前に築かれた半円形の「丸馬出し」に併せて造られ、戦国武将・武田氏の築城技術の特徴とされる。護岸の遺構が見つかったのは城跡の東側。縦10メートル、横10メートル、深さ2メートルほどを発掘し、石や盛土を確認した。堀の水で浸食されないよう、石を粘土で固めたとみられるという。
 松代城は、戦国時代に武田氏と越後の上杉氏が争った「川中島の合戦」で永禄3(1560)年ごろ、武田方の拠点「海津城」として造られたと伝わる。三日月堀は、元和8(1622)年に真田家が松代藩に移封された頃の絵図に描かれているといい、市教委は、今回の遺構が城の当初の姿を知る手掛かりにもなり得るとみている。
 遺構の石には直径約2メートルの大きなものもあり、担当者は「大掛かりな土木工事が行われたことが分かる」と説明。小さな石を使った方が隙間を減らせて浸食防止には効果的なため、巨石を使った三日月堀は珍しいという。市教委は今後、巨石を使った目的なども探りたいとしている。
 この発掘調査では、城跡の南側にある「二の丸」の土塁の痕跡も確認した。 現地説明会は午前10時から。申し込み不要。問い合わせは市教委文化財課(電話026・224・7013)へ。